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広報さばえ平成29年2月号通常版

近松鯖江生誕説考 三好 修一郎

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福井県鯖江市

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者、近松門左衛門の「生誕鯖江説」を唱える越前市武生公会堂記念館の三好修一郎館長が、この度これまでの調査結果を発表し、近松が鯖江市で誕生した可能性が大きいことをあらためて示しました。

1.通説「福井生誕」に誤りあり
 一九六一年に、大阪市立大学の森修先生が、近松本家の系譜や親類書、及び福井藩の歴史書『片聾記』や『越藩史略』を基に、近松の父杉森信義が、松平昌親の家臣として、明暦元年(一六五五)から少なくとも寛文四年(一六六四)までは吉江の地にあったことを世間に知らせてくれました。それとともに、森先生は、次のような見解も述べられました。
 吉品(昌親の後の称)は承応元年(一六五二)一三才で元服し、明暦元年(一六五五)一六才になって、はじめて吉江の地におもむいている。それまでは福井にいたわけである。そこで近松の父信義が吉品に従うて、吉江に行ったとしても、明暦元年以後のことであろう。近松はそれ以前の承応二年(一六五三)に生まれているゆえ、生まれたところはけっきょく福井の地ということになる。(注)
この見解が、今にいたるまで全ての近松研究者に受け継がれ、誰一人としてそれを疑う者はいないのですが、実際は、吉江の地に赴く前、昌親は福井にいなかったのです。福井藩の正史である『国事叢記』に、46年4月27日(以下、西暦年を下二桁で表記)、数え年七歳の昌親は、母親及び妹とともに初めて江戸に下向した、とあります。
 この記載は、『片聾記』や『越藩史略』にはなく、『国事叢記』のみに見られるものです。同書の出版は、森先生の論文掲載年と同じですから、森先生は同書を読むことができなかったのです。
 藩主が江戸にいるのに、家臣たちは福井に留まっていたと考えることには無理があります。また、主君が吉江に赴いた時に、家臣たちも一緒に吉江に移ってきたのだとしたら、次の日から藩の行政を滞りなく行うことなどできるはずがありません。
 ただ、残念ながら、吉江藩の歴史に関する文献はほとんど残されていないので、「これこの通りです。」とはいかないのです。幸いに、同時に分家となった松岡藩に関しては、かなりの文献が残っていて、近松が誕生した53年以前、松岡藩士の家臣たちは、松岡の地に暮らして藩政に当たっていますから、吉江でもそうだったと思うのです。でも、それはあくまで松岡藩がそうだったのであって、吉江藩でもそうだったと断言はできないでしょうと言われたら、黙るほかなかったのです。

2.藩主の入部以前、家臣団が吉江に居た証拠を発見
 六年前、偶然、古書目録で、「関所女通行手形」を見つけました。これは、54年10月5日に、吉江藩の国家老格の高屋善右衛門と、江戸家老格の皆川左京(江戸屋敷在住中)の連名により、新居関所(浜名湖畔にあり、箱根関所とならぶ東海道の重要な関所)に差し出されたものです。
 その内容は、江戸屋敷にいる昌親の母の召仕女として派遣する吉江村の四人の女たちの関所通行の許可願いです。この通行手形は、藩主昌親の江戸在住中、すでに重臣が吉江にあったこと、そして家臣たちが主君に代わって藩政に当たっていたことを示しています。
 けれども、その時期は、近松誕生の一年後ですから一歩が届きません。足踏みすること五年、その間、文化課の浮山課長や橋本さん、近松倶楽部の世話方の皆さんには、大いに後押ししていただきだきました。

3.近松の生誕以前、家臣団が吉江に居た証拠と推定
 皆川左京のご子孫宅訪問が西光寺への道筋をつけ、数度にわたる同寺での所蔵資料の調査を経て、同寺の愛猫カンキチ君の導きもあって、同寺第八世良助に昌親の母の妹おとくが嫁ぎ、その縁で昌親からの書状が数多く同寺に残されている事実にたどり着きました。
 例えば、昌親は、51年12月28日に元服し、従五位下に任ぜられ、兵部太輔を称するようになりますが、そのお祝いに西光寺から鴨一折を江戸に贈った際の礼状や、52年春に日光普請が無事済んだお祝いに干鰈一箱を贈った際の礼状などがあります。
【図2】は、「去年の冬、幕府より諸事仰せ付けられたが、首尾よく済ませ、(将軍様に)年頭の御礼を申し上げることができ有り難き幸せでありました。(そのことに付き)ご丁重なるご祝辞を、高屋善右衛門方まで仰せいただき、喜びにたえません。」との昌親からの礼状です。
 差し出された年は記載されていませんが、昌親の吉江入部(55年)以前、また「松兵部」とありますから、上記の51年12月28日の叙位以後であることが分かります。その間、冬に諸事仰せ付けられ、年頭のお礼を申し上げたことといえば、諸歴史書からも元服と叙位以外には見出すことができません。そこで、このお礼状は、52年2月3日付のものと推定できるかと思いいます。昌親公の元服・叙位に際し、西光寺は、先ず高屋善右衛門方へお祝いの挨拶に出向き、そして江戸に飛脚便で鴨一折を贈ったのでしょう。
 すると、近松誕生の前年、高屋善右衛門は吉江の地に居た、ということになります。国家老格の重臣のみが居たとは考えられませんから、近松の父を含めた家臣団とその家族たちも、吉江の地に居た確率は高いと思います。少なくとも、近松は、福井で生まれたと考えるよりは、鯖江の吉江で生まれたと考えることの方が穏当である、ということは言えます。
 これから先、近松の父杉森信義の所在を直接的に示す資料や、近松の幼少年時代が垣間見れるような資料を見つけたいものです。それらは、きっとどこかで探し出されることを待ち受けている、そんな気がします。
(注)『人文研究』(大阪市立大学文学会編)12-6 一九六一年

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